あなたが見る世界は、どういう色をしているのだろう。
時々、同じものを見ていても、自分が今見ている色と、他の人が見ている色が全く同じだとは限らないのではないだろうかと考えることがある。
わたしが赤だと思っている色が、実は他の人には青に見えているということもあり得なくはないのではないかと。
きっと、科学的なところでは同じように見えていることは証明されているのかも知れないが、自分以外の人に成り代われるわけでもないのに100%同じに見えていると言い切ることはできないのではないか、と思ってしまう。
こんな当たり前にみんな同じだと思われていることでさえ、他者にどう見えているか本当のところはわからないのだから、家族や友人など近い関係の人であっても、その人が本当のところ何を思っているのか、どういう人であるのかというのはわからないよなと思う。
その人がどんな日々を過ごしてきて、どんな人に出会って、何をどう感じたのか、その全てを体験することはできないし、話を聞いたとしてもそれを完全に自分のものとして感じることはできないのだから。
全てを打ち明けるような話をしても、本当に全てを言うかはわからないし、嘘も混じっているかも知れない。本人だって、当時の実際に感じたことと、それを今振り返って感じることでは無意識のうちに違うところがあるかも知れない。仮に全く同じ出来事を体験したとしても、そこでどう感じるかはその人と自分とでは違う部分が出てくるだろう。
違う人間だから。
人は、自分を生きることしかできないんだろうと思う。
そんな風に思っているからか、言い切る表現をすることも、見聞きすることも苦手だ。
「こうするべきだ」「これはNG」「あの人はこういう人だ」
こういった表現は、ネットや書籍、日常会話のなかであふれているように感じる。
ひとりひとりに考え方や自分にとっての正しさみたいなものはあると思う。
でも、それはあくまで「その人にとっての」である。
まるでそれが揺るがない「正しい」ことであるかのように振る舞われるのは、なんだか居心地が悪いと思ってしまう。
言い切れること、断定できることはこの世界にそうたくさんないはずなのに、断定する表現はあふれている。
なんとも息がしづらい。
どうしたらもう少し深く息が吸えるだろうか。
自分が感じること、考えること、世界がどんな風に見えるのか。
まずは、こういった自分の感覚を置き去りにしないようにしたい。
その上で、自分が持っている色々と、他者が持っている色々を、時々見せ合えたらいいのかも知れない。
それぞれが自分の感覚を忘れずに持っておくこと。
この世界に存在する誰しもが自分とは違うものを持っていると知ること。
そこに善し悪しはなく、ただ「ある」ということ。
これらが、いまの私の「生きる」ということであるように思う。
あなたはどうだろうか。